草津温泉

♪~お医者様でも草津の湯でも、恋の病は治りゃせぬ~♪

江戸時代 『嘉永四年板』(1851年刊行)

国会図書館保存の『諸国温泉功能鑑』によれば、江戸娯楽番付け「東の大関」草津温泉。時代は明治に入り、草津温泉は、「世界第1級の温泉保養地」として、広く国外にも発信されました。

その発信者こそ、Erwin Von Balz(1849年1月13日生まれ)通称、ベルツ博士。 明治9年政府の招きで来日し、東大医学部の前身である東京医学校で26年間、生理病理、内科、婦人科の教壇に立ち、日本医学のために多大な貢献をした人です。

ベルツ博士は明治11年頃より草津温泉に足しげく通い、温泉を分析し、正しい入浴法を指導すると共に「草津は高原の保養地として最も適地である。草津には優れた温泉のほか、日本でも最上の山と空気と全く理想的な飲料水がある。こんな土地がもしヨーロッパにあったらどんなに賑わうだろう」と称え、国内外無比の高原温泉であることを世界に向けて紹介しました。

草津温泉、繁栄の歴史を紐解けば、

江戸時代初期は上州真田氏の沼田藩の支配下、その後は天領として江戸幕府の直轄支配を受けています。 特に、大江戸文化爛熟期と呼ばれる文化文政時代に、草津温泉は繁栄期を迎えました。 現在と比べて交通は不便にもかかわらず、湯治客で賑わい、年間1万人を超える数を記録しています。近世を通じて60軒の湯宿があり、幕末には「草津千軒江戸構え」と言われるほど栄えていました。

江戸―草津の要路である草津街道。その街道沿いに、草津の湯治客が珍重した(上州さわたり)沢渡の湯が、湧いています。(上州さわたり)沢渡温泉は、「諸国温泉効能監」行司に番付され、古くからの名湯として草津と共に、江戸の庶民に愛されていました。草津温泉は泉質が強烈な酸性湯のため酸で荒れた肌を、治す為の「草津の仕上げ湯」として、沢渡のまろやかな泉質が重宝されていたのです。以降、草津―沢渡―江戸、草津街道の湯治ルートは繁栄の時代に入りました。

「温泉考」を一節書き添えます。近代は、温泉の掘削技術向上により、地中1,000~2,000メートルから「温泉水」と銘打って、人工的に汲み上げています。 そもそも地中本来がもつ「地熱」が、100メートル掘削ごとに2.5℃上昇するのですから、地熱で上昇した「水」と比して、地中から噴き出した「温泉」とでは、その効能に於いて「雲泥の差」「似て非なるもの」と評されるのは、論を待たないものです。

「温泉」とは、悠久の歳月をかけて、地中深く還流を繰り返し、豊富なミネラルを含み、マグマのエネルギーを蓄え、満を持して地上に噴き上げた「自然からの贈り物」です。

江戸の当時から、草津温泉 酸性湯、上州さわたり(沢渡温泉)弱アルカリ湯、共に温泉成分が濃密な、一級品を示す上品(じょうぼん)と、評価されていたようです。

因みに、「諸国温泉効能監」は江戸時代の番付表ですから、近代の技術を駆使して、掘削して汲み上げている温泉(自然湧出ではない)温泉地は、登場しておりません。

草津の湯宿事情:
江戸時代初期の宿は、内湯はなく、基本的に素泊まりでした。1700年代初頭になると、「かこい湯」「幕湯」という「貸し切り湯」の習慣ができ、のちに内湯が設けられるようになりました。

「お医者様でも草津の湯でも、恋の病は治りゃせぬ~♪♪♪」 民謡「草津節」の一節です。草津節は明治から大正にかけて出来たものだそうです。

日本橋人形町の芸者衆も、湯治を口実に、密かに銀座の若旦那衆と草津温泉で落ち合っていたのかも知れません。人形町の「きれいなお姉さん」を覚えている、と語ったのは、復路、仕上げの湯、沢渡温泉で湯治客相手の床屋を代々営み繁栄していた、今は亡き長老の幼少期の想い出です。

草津から沢渡の湯まで六里。 湯治客は復路、草津を背に、一路山道を急ぎます。幕府直轄の地、草津温泉から、仕上げの湯、沢渡温泉へ、そして江戸に戻る。その要路であった草津街道です。

遡ること戦国の世、武士の傷を癒す為の草津の湯治は、「冬住みの里」に残された資料からも知ることができます。源頼朝も、草津温泉の強酸性湯で傷を癒し、殺菌をして、次に向かうは、酸で荒れた肌を整える、沢渡の湯へと急いだようです。下剋上の戦国の世、早期の体調快復に万全を期して次の合戦に備えた、と言うことでしょうか。その様は、現代の丸の内界隈の戦うエリートサラリーマンに、そのままタイムスリップしたかの様です。武将頼朝の足跡も、沢渡の宿には残されています。

草津で湯治宿を営むのは夏季から初秋にかけてのこと。大雪の冬季には、六合村(くにむら)にある小雨(こさめ)地区に下り、宿の主と家族は「冬住みの里」に暮らし、雪解けを待ちました。

その六合村(くにむら)の小雨(こさめ)地区には、尻焼き(しりやき)温泉があります。川の流れがそのまま温泉である野趣溢れる地形です。ここから、いよいよ暮坂(くれさか)峠に向けて登ります。十辺舎一九、岡倉天心をはじめ、かつて多くの文人墨客が沢渡の湯へと急いだ草津街道 峠越えの暮坂峠です。峠に着くと茶屋と馬の水飲み場が有りました。今は、茶屋の前に歌人若山牧水(石)の像と「枯れ野の旅」の石碑が立っています。

陽が山に落ちるのは早く、暮れかかる峠を下り切ると、大岩(おおいわ)村の集落があらわれます。平家の落人の集落です。左側に大岩不動尊入口、霧降(きりふり)の滝の入り口を横目に急ぎます。少し行くと右側に、有笠山(ありかさやま)が目前に迫ります。 山高帽の形をした山の頂には、大きな池があり、そこに棲む「龍」が、月の輝く白夜には、天高く美しく舞い昇る。村の子供は皆、ドキドキしながら、大人から、そう聞かされて育ちました。伝説の山です。

有笠山の麓に沿って周る様に馬背に揺られると、蛇野川(へびのがわ)に架かる晩釣橋(ばんつりばし)のたもとに着きます。まだ土橋であった頃、蘭学者高野長英が江戸より逃れ住み、晩になると、密かに釣り糸を下げていた橋です。夏の夜は蛍の光だけで、充分な灯りだったようです。この坂の上に、仕上げの湯、沢渡温泉の集落があり、立ち並ぶ宿が見えます。

沢渡温泉、上の湯、中の湯、下の湯の共同浴場で、草津からの湯治客は湯浴みします。村の人々も同じ湯に浸かります。当時の村の長老は、朝風呂で「江戸の文化」の香りを浴びていたようです。時は大正の時代に入り、当時まだ幼少であった(モト)娘さんが想い出を語るに、「おじいさんに連れられて、風呂上りの珈琲と、蓄音機を聴くのが朝の一仕事だった」とのこと。当時のカフェ山口楼で、しばし、大人の世界に浸る村の幼子。満足だったと言わんばかりに語ります。大正浪漫もまた、こんな山奥の暮らしにもあったようです。

時は流れ昭和20年「沢渡の山火事」を発端に、賑わいの温泉街は壊滅しました。
今では、「静かな温泉地」へと変貌し、山間(やまあい)に湯が沸き、カフェとか、コンビニとか、有りません。小さな郵便局舎にATMは、一台あります。

そうそう一軒だけある、石臼引きのお蕎麦屋さん、旅の翁をウナラセタ逸品。「野(や)に遺賢あり」世間には知られていない優れものが、どこか忘れられたような処で、ヒッソリと息づいている。上州さわたりは、今、温泉通だけが密かに集まる場所になっています。

新しい交通の流れ:
終戦を待たずして、昭和20年1月 国鉄長野原線(現・吾妻線)が、長野原駅(現・長野原草津口駅)まで開業。 鉄道の開通は、仕上げの湯沢渡の地を迂回して、長野原町経由となりました。この時をもって、かつての草津街道、草津―沢渡―江戸の「湯治・遊山の流れ」は一変しました。

かつて、湯治客が馬背に揺られ賑わった、峠越えの(旧)草津街道は、今は面影も無く公共交通の手段を失くし、マニアだけの隠れ路となっています。

さて、そろそろ、お話しも終りに近づきました。最後にこんな「寂しい事件」を紹介します。皆さまは、如何が思われますでしょうか?

前出の若山牧水は(石)の像と記しましたが、もともとは(銅)の像でした。峠の麓の沢渡温泉組合が創立し、毎年牧水祭りを開催して、浴客にキノコ汁を振舞い、大切に守ってきた(銅)の像です。その(銅)像が、昭和も終わりに近づいた頃、(銅)の窃盗団に持ち去られました。

牧水祭りの日を除けば、通る人影も少ない山の峠。「蛇(じゃ)の道は、へび」と申しますが、(銅)材をあさって、こんな国の片隅まで、嗅ぎ付ける窃盗団。くわばら、くわばら。

それでも、沢渡温泉組合は今も元気に牧水祭りを開催しています。もちろん麓の沢渡温泉には、今も源泉が、「沢を渡り」コンコンと絶えることなく流れています。(おしまい)

お問い合わせはこちら